耳をすまして目をみはれ

子育て中の一般市民が、児童虐待事件などについて思ったことを書きます。あくまで個人の見解です。

続・そういうことにしておいて下さい。

親たるものこうでなければ、で苦しくなっている人は案外多いのかもしれないと感じます。

 

我が子は無条件にかわいい。

我が子への愛情は海よりも深い。

もちろん自分よりも子供が優先。

子供と過ごす時間は何にも代えがたい宝物だ。…等々。

 

私は間違いなく自分の子を可愛いと思っていますが、それだって24時間365日ではなく、時には自分を優先したくなったり、また一人になりたくこともあったり…実際にそうしてしまうこともあります。

 

中には我が子を全く・あまり可愛いと思えない方もいるのかもしれない。

環境、ご本人の資質、体調面・精神面の不調等によっても…人それぞれあるのかもしれません。

そういう方はいっそう辛いだろうなあと思います。

 

こうでなければ、は世の中的に便利であるから用いられているだけなんじゃないのとも言いたくなります。

民法には「親が子供の利益のために子供の監護および教育をする権利があり義務を負う」といったことが規定されていますが、親が自分の身を呈して子供を守らなければならないということも実はないのかもしれません。

世間では母親の配偶者・交際相手に子供が殺される事件も多く見られます。そんな時、母親であれば子供を守るべく行動するべきだという声があがります。

本当は、そうしなければならない、ということもないのかもしれない。

ただ、自分の棚上げ・身勝手ながらも、どうか子供は守って欲しいと願ってしまいます。

そういうことにしておいて下さい。

最近、夜ご飯を子供達と一緒に食べていません。

食卓に食事を並べた後は台所や部屋の細々とした片づけをしたり、布団を敷きながら(家は布団派)、自分はちょこちょこと立ち飲み・立ち食いをしています。その間、子供達はもちろん座って食事をとっています。

リビングダイニングベッドルームな感じの間取りなので、子供達の様子は見えるし会話も出来ます。

 

一緒に食卓について食べることも可能なのですが、敢えてそうしていません。

理由は、子供達と一緒に食事をとることが苦痛だからです。

うちの子供達はあまり食事の時間を喜びません。お腹は空いている筈なのですが、なかなか進まず…嫌そうな迷惑そうな様子にさえ映ります。自分達が好きなもの(ラーメンやうどんの麺類など)は割とよく食べますが、普段の食事はからっきしです。

 

子供はそういうものと思います。

自分もそうでした。ご飯を食べられることってありがたいことなんだなあと心から思ったのは罰当たりなことに大人になってからでした。食事の時間って、それほど嬉しい時間ではなかったです。給食の時間も。(それだけ恵まれていたと言えるのかもしれません。)

自分だってそんなふうだったのですが。

 

帰宅した時には仕事で疲れており、疲れていることをアルコールでごまかしながら子供達の入浴、食事、片付けをこなしています。

そんな中、食べない子供達と一緒に食事をとることは更なる苦痛なのです。

 

食事は一緒に、会話をしながら。和気あいあいな食事は食育の一環。食が進まないことを咎めたり怒ったりするのではなく、まずは楽しい雰囲気作りから。

うるせー、と言いたくなります。

そんな気力は残っていない、というのは我ながら言い訳に聞こえる。

子供達はむちゃくちゃ可愛いく、それはもう大好きな存在なのですが、一緒に食事をするのがここ最近は苦痛です。

苦痛であることを後ろめたく思います。本当はこうでないといけないのに、という食事光景(みんなで食卓を囲み和やかに食事する)が頭の中にあるのに、そうなってない。

本当はこうでないといけないのに、というものには、この夕食問題に限らず子育てをしていると時折ぶち当たり苦しい思いをさせられます。

そんな時は。

大まかなところが達成出来ていれば(たとえば子供達は飢えることなく必要な栄養はとって一応成長しているわけです)OKと思いましょう、的なことを本で読んだことがあり、そこにすがっています。

どうかそういうことにしておいて下さい(懇願)。

AIとかテクノロジーとか

同じ目に遭えばいいのに。

子供が被害者となる事件を知った時にはいつも、真っ先に思ってしまいます。

自分が子供にしたのと同じだけ殴られ蹴られ、熱湯や冷水を浴びせられ、食事を抜かれ、正座させられ立たされ、縛られ繋がれ…裁判とか服役とかも要らなくて、単純に同じことを同じだけされればいいのに。それだけでいいのに。

自分が他人にしたことを身を持って知る、それ以外に反省のきっかけってあるのだろうか。加害者には、相手の痛みを想像出来ない類の人が多いのではないかと思うので。

そうしませんか?「自分が子供にしたのと同じ仕打ちを受ける刑」作りませんか?

 

しかし問題が。

加害者がどういった行為をどれぐらいの量(?)で行ったのか。それを正確に求めることが出来ません。

加害者の供述そのままでは不十分です。今現在だって加害者は自分の犯行内容を正直に話すわけもなく、恐らく実際よりも少なめに申告していると想像します。

それがもし「自分が子供にしたのと全く同じ仕打ちを受けてもらう刑」が成立・施行された日にはかなり目減りしますよね。内容に関しても緩めになる筈です。

 

(ただでさえ人の記憶は不確かなので、加害者はもちろん被害者側からも、正確な内容を導き出すのは難しいと思われます。)

 

ではどうすればよいのか。

AIが何とかしてくれないでしょうか。

体重10㎏の女の子が体重70㎏の成人男性に殴られた時と同じ衝撃を体重70㎏の成人男性が受けるには相手がどれぐらいの力で殴ればいいか。

子供が3日間食事を摂らない場合の衰弱度合いは大人の体に換算すると何日になるとか。

そういうことはきっとすぐに分かるに違いない。

また、残っている傷や血液などの成分の状態から行為の内容や頻度も少し分かるかもしれないし、プラス加害者の発言の信用性、生育・生活状況、性格やDNA情報・外部の目撃情報などを前もって数値化して全てをひっくるめて供述内容を修正すると正確なものに近くなったりしないだろうか。

 

しかし更なる問題は、誰が同じ目に遭わせてやるのか…刑を執行する人は誰になるのかということです。

人では色々な意味で難しくなるかと思いますので、ちゃんと相手に正しいダメージを与えることが出来る装置、機械の開発が望まれます。それぐらい今の日本の技術であれば作れますよね!自分で運転しなくてもいい車が出来そうな時代なのですから。

 

 

などなど、とりとめなく、時間を無駄にしてると感じつつ思う午後でした。

私達が知らないところで実はやっててもらえるといいのに「自分が子供にしたのと全く同じ仕打ちを受けてもらう刑」。

父雄大被告の公判に思ったこと

船戸雄大被告が「パパになる」と、殺された当時よりもさらに幼い結愛ちゃんは喜んでいたという記事をネットで読んだことがあります。再婚の前後は”普通に”結愛ちゃんを可愛がっていたことが周囲の人達の言葉で語られています。

そして被告の中には理想の家族の姿があった。

すごい夫、すごい父親でいたかった。妻にとっても全てに於いて絶対な存在でいたかった、上の存在でいたかった。子育てや教育に関しても同様で、ただ描いた理想を実現するのは難しく(誰でも実はそうで描いた通りなんていかないのが当たり前と思いますが)、方法として暴力的な言動を用いていくと何となく上手くいったじゃないかという場面もあったためそれを突き通した、理想と外れていっていることには気づいても軌道修正する方法も分からず、警察や児相もやってくるが自分のやり方は間違っているかもしれないなんて考えないように細心の注意をはらいながらとにかく突き通した結果。

どうしてこうなってしまったのか分かっても、自分は納得は出来ません。

結愛ちゃんが痛い苦しい怖い思いをしなければいけない理由はどこにもない。

 

母優里被告もこの人も、結愛ちゃんの衰弱に死の直前まで気付かなかった、という証言にも腹が立ちます。

そんなわけあるか?

早い段階で気付いていた、なんて言ってしまったら保護責任者遺棄の度合いも強まるだろうから裁判ではそう言い張るものなのかもしれないけれど。

もし気づかなかったというのが本当であればそれは、そんなにやせていない怪我もそんなにひどくない割に元気だ、と思い込みたくて(そうでないと大いに困る)そっちの見解を採用してきただけではないのか。それは母優里被告の方がより顕著だったのかもしれない。夫が暴行していたことを知らなかったとまで言えたのは。目がよく開かないほどに顔も腫れていたのに。亡くなる直前に痩せた体を意識した、170か所の傷が目に入らなかった、というのもすごい。本当ならば自分を守る力がすごい。

 

検察の求刑18年に対して、懲役13年の判決でした。

裁判長は「同種事案で最も重い部類」と言いながらも求刑18年は「従来の量刑傾向から踏み出した重い求刑だ」と指摘しています。そして「虐待のひどさが社会の耳目を集めたことを踏まえても、最も重い部類を超えた刑を科すべき根拠は見いだせない」→懲役13年との判断。

 

裁判員を務めた方は「許せないという感情的な部分と、過去の量刑傾向とのバランスを取るのが難しかった」とお話されています。

                    (裁判長の言葉等、新聞記事の参照です。)

 

判決を下す際には過去のものとのバランスをとらなければならない、とされるのですね。この裁判員の方も辛かっただろうなと想像します。

 

しかし。こういう裁判長のコメントなどを見ていると、だったら裁判員裁判、ていうか裁判やる意味ってあるの?とすら思ってしまいます。

過去の判例と照らし合わせで自ずと決まってしまうんだったら。そこに人はいらないですよね、裁判官も含めて。(極論ですが…)

18年と踏み出して何か悪いのか。

これまでが子供の命を権利をあまりに軽くみていただけで、ここから変えていく事をしてはいけないのでしょうか。

量刑について

親による子供殺害事件の判例いくつか。

・先だっての栗原心愛ちゃんの母親の裁判では執行猶予付き判決。

箕面市で4歳男の子を暴行の末に殺害した男2名(母親の交際相手と知人)は懲役10年(求刑12年)判決。(主導したとされる母親の裁判はまだ行われていないようです。)

・2006年に東京で11か月女の子を暴行死させた父親は懲役6年6月(求刑8年)判決。

・昨年、北上市で1歳男の子を放置、衰弱死させた父親は懲役5年(求刑6年)判決。

・大阪2児餓死事件では懲役30年(無期懲役の求刑)。

・2014年、東京で2歳女の子を踏みつけて殺した父親は懲役10年。

・2017年、姫路市で1歳男の子へのネグレクト・暴行(結果、当時の報道では植物状態とのこと)を行った母親は懲役1年・執行猶予5年、父親に懲役5年の判決。

・2017年、大阪市で9か月女の子を投げ落とし死亡させた母親は懲役3年。

・2017年、草津市で3歳男の子の頭を踏みつける等の暴行を加え殺害した父親は懲役7年(求刑10年)の判決。

・2016年、東京都大田区で同居相手の息子(3歳)を暴行し殺害した男は懲役8年(求刑9年)。母親は保護責任者遺棄致死容疑で書類送検→不起訴。

・2016年、狭山市で3歳女の子をネグレクト・暴行で殺害した母親は懲役13年(求刑13年)、内縁の夫は12年半(求刑13年)。

 

まだまだ、幾つも幾つもあります。

 

 

どんなに重い刑罰だとしても(極刑だとしても)、子供の命は返らず、その時に子供が受けた苦しみが和らぐわけではない。だとすれば何年でもいいやどうでもいいやと思考を投げ出したい気持ちにもなります。

自分なんかがあれこれ考えたところで何になるわけでもないです。

でも、考えることは止めたくないとも思います。

母優里被告の公判に思ったこと2

17日、母優里被告に懲役8年の判決が下りました。(求刑11年)

 

以下、新聞に掲載されていたものです。

(判決は)元夫からの心理的DV被害の影響をある程度認めたが、「母親」の責任を厳しく追及し過ぎている。~「心理的影響を乗り越える契機があった」とするのはDV被害の実態を理解していない。~母親への非難は簡単だが、行政や医療機関の対応も含め、逃げられなかった背景を考えるべきだ。~(虐待とDVについて)社会問題として議論しなければ悲しい事件が繰り返されてしまう。 

                  (DV問題に詳しい坂倉由実弁護士の話)

 

子どもの虐待死は、裁判員制度が始まってから量刑が跳ね上がった犯罪類型だ。今回も生命を尊重する市民感覚が反映されたのだろうが、量刑が重すぎる印象がある。同じ虐待死でも、被告に殺意があったのかや、暴力を直接加えたのか見過ごしただけなのかによって、罪名も量刑も明確に区別しないといけないはずだ。このままでは、特別重大な犯罪とされるべき殺人と、今回のような保護責任者遺棄致死の差がなくなり、量刑全体のバランスが崩れないかと懸念を抱いてしまう。裁判員制度が始まり10年が経過したが、こうした司法の変化がふさわしいかどうか検討が必要だ。

                       (元裁判官の森炎弁護士の話) 

 

専門家からは量刑について重すぎるという指摘もあります、ということを示したいようです。

さすがに専門家の意見として「被害者と同じ目にあわせるべき」とか「極刑でもぬるい」的なものは載っていません。

 

(個人的な意見ですが。無抵抗にならざるを得ない子供を時間をかけて苦しい思いをして死なせる虐待死って、いわゆる殺人と遜色あります?衝動的な、もしくは計画的な殺人より性質悪いと思ってます。相手が子供であればなおさら、助けないというのは十分に加害(殺害)行為ではないのか。)

 

(結愛ちゃんが残したノートの言葉について)「衝撃的だったが、証拠を調べていくと印象が変わってきた」「証拠として見ると違う面があった」※優里被告の、雄大被告にこれ以上怒られないように二人で書いたという供述を受けての指摘。

「(結愛ちゃんの)弟もいるので、しっかりと刑期を終えて今後を生きてほしい」

 

                           (裁判員の会見より)

裁判員「難しい判断」という見出しがつけられていました。

ものすごく難しいんだろうなと思います。こうして好き勝手に思ったことを書くのとは違う。

 

弁護側は被告は加害者でありながらDV被害者であり正常な判断は出来なかった、それでも精一杯母親としてやれることをやった、深く反省しているという部分を主張していましたし、求刑から目減りするのが割と普通のようですし、今回の判決も落ち着くところに落ち着いたと言えるのでしょうか。

懲役8年。現在までの勾留期間を引き、また実際の刑期は短めになることもあるようなので、実質4~5年ぐらいなのでしょうか。 

妥当?長い?短い?

 

一つ思ったこと。「船戸優里を一番許せないのは自分」等と話し、「死にたい。結愛のところに行きたい」と公判の中で号泣していた被告について閉廷後、弁護人は「(優里被告は)裁判員が自分の主張を理解してくれたと受け止めているようで、量刑に不満はなさそうだった」と伝えています。(同新聞記事より)

何となく腑に落ちない、というか辻褄の合わなさを感じました。

何故求刑よりも短くしたのか、もっと長くして下さいと控訴すれば納得というわけでもないのですが。

 

母優里被告の公判に思ったこと

船戸結愛ちゃんの母親の裁判が始まり、その内容をネットや新聞で追っています。

 

DV被害者でありながらも出来る限り娘を庇い生かそうと頑張った母。最期には寄り添い二人で穏やかな時間を過ごし、優しい嘘で娘の心に微かな光を灯す。そして静かに旅立った娘。残された母は他の誰でもなく自分を責めるしかない。

的なストーリーに仕立て上げてきたんだなあ、と感じました。悲劇寄りの美談に持っていきたいのかと。

弁護士は抒情派なのだろうか。そして劇場型派?

 

そりゃあ大好きなお母さんに優しくされて、もう痛いことも怖いこともなく、微かな希望すら抱いての穏やかな最期だったのであればいいと切に願います。せめて。

でも亡くなる直前まで嘔吐し続け、殴られたという顔から体から傷だらけ、実際に母親が付き添って看ていた時間は長くなさそう…等々の事実から、やっぱりそうではなかっただろうと打ち消すしかないです。

 

母親優里被告の中に、本当に結愛ちゃんを案じる気持ちはどれぐらいあったのだろうか。

病院に連れて行かなかった理由は、この状況が明るみに出て(元)夫、そして自分も逮捕されるのを恐れた為、と語られています。

自分>娘としか読み取れないです。

 

また、品川児童相談所も訪問をしていますが、香川での経験から児相は子供を取りあえず守るという事は知っていたはずです。

香川の児相は、検証では対応が不適切だったと指摘されたりしていますが(アセスメントシートを使っていなかった、医療機関等からの情報を活かさなかった、引継を電話と書類で行った…※アセスメントシートってただ使えばいい話じゃないよなあとか直接会うのがそりゃあ一番かもしれないけど電話と書類で引き継いで何が悪いんだろうとか、ちょっと色々思っていますが)、結愛ちゃんの安否確認は定期的に行っていました。

それはしっかり、船戸雄大被告が東京に逃れてしまうほどに。

結愛ちゃんを守る機関であることは知っていた筈です。

でも裁判の中でも語られましたが、児相や行政機関は子供を守っても、自分を守ってくれるわけではない機関と位置付けていたようです。

自分も保護してほしかった。

そのような言葉も聞かれたようです。心理的なDVの被害や自らの精神状態について警察や病院、児相等にうまく伝えられず、自身の問題については特別視されなかったため放置された経験が被告にはありました。

例えば児相にありのままを伝えて結果娘が保護されたとして。

娘は助かる、が自分には何の得もないむしろマイナスにしかならない、という思いもあったのではないかと想像してしまいます。

 

 

話は逸れますが。

裁判中では優里被告の父親が証人としてお話されています。

被告の家族は結愛ちゃんが2回児相に保護をされたという経緯を知らなかったようです。

割と近所に住んでいたようで、そういう状況で知らないってあるんだと驚きました。

保護をされた理由に話が及べば書類送検もされた(不起訴でしたが)雄大被告の暴力行為が家族にも知られるわけですが、保護自体を隠すことって出来るのですね。

父親による子供への虐待がある家族。児相や行政機関は、その家族内の問題はその家族内で解決しようという考えを持っているのでしょうか。

幼稚園等には情報を伝え見守ってもらっていたはず。

近くに住む祖父母も頼りにしてもよい存在ではなかったのだろうか。

優里被告が拒否すれば児相も情報を伝えることは出来ないに違いないですが。伝えない理由も何とでも言い繕うことは出来ますよね。

そりゃあ自分の親に、夫が娘に暴力を振るい娘は保護されている、なんて言いづらいと心中は察します。一度離婚を経験しており幼い子供も二人、これ以上の心配をかけたくない。事実を知ったら「別れろ」一択に違いなく、それも避けたかった?それから自分の体面も守りたい…という思いもあっただろうか?

 

子供や家庭への支援について、行政的には基本なるべくその家庭内で解決する方針なのでしょうか。プライバシー保護とかの絡みなのでしょうか。それも疎かには出来ないんだろうけど。

そんなことも疑問に思いました。

 

 

結愛ちゃんが「自分の命よりも大切だった」という母優里被告の言葉に私は違和感をおぼえました。

それが決してゼロとは思わないけれど、100パーセントだろうか?

仕立てあげられたストーリーと実際の出来事の間には齟齬が生じると思うし、そこかしこに漂うのは保身という思惑、というのが自分の全体的な感想です。