耳をすまして目をみはれ

子育て中の一般市民が、児童虐待事件などについて思ったことを書きます。あくまで個人の見解です。

父雄大被告の公判に思ったこと

船戸雄大被告が「パパになる」と、殺された当時よりもさらに幼い結愛ちゃんは喜んでいたという記事をネットで読んだことがあります。再婚の前後は”普通に”結愛ちゃんを可愛がっていたことが周囲の人達の言葉で語られています。

そして被告の中には理想の家族の姿があった。

すごい夫、すごい父親でいたかった。妻にとっても全てに於いて絶対な存在でいたかった、上の存在でいたかった。子育てや教育に関しても同様で、ただ描いた理想を実現するのは難しく(誰でも実はそうで描いた通りなんていかないのが当たり前と思いますが)、方法として暴力的な言動を用いていくと何となく上手くいったじゃないかという場面もあったためそれを突き通した、理想と外れていっていることには気づいても軌道修正する方法も分からず、警察や児相もやってくるが自分のやり方は間違っているかもしれないなんて考えないように細心の注意をはらいながらとにかく突き通した結果。

どうしてこうなってしまったのか分かっても、自分は納得は出来ません。

結愛ちゃんが痛い苦しい怖い思いをしなければいけない理由はどこにもない。

 

母優里被告もこの人も、結愛ちゃんの衰弱に死の直前まで気付かなかった、という証言にも腹が立ちます。

そんなわけあるか?

早い段階で気付いていた、なんて言ってしまったら保護責任者遺棄の度合いも強まるだろうから裁判ではそう言い張るものなのかもしれないけれど。

もし気づかなかったというのが本当であればそれは、そんなにやせていない怪我もそんなにひどくない割に元気だ、と思い込みたくて(そうでないと大いに困る)そっちの見解を採用してきただけではないのか。それは母優里被告の方がより顕著だったのかもしれない。夫が暴行していたことを知らなかったとまで言えたのは。目がよく開かないほどに顔も腫れていたのに。亡くなる直前に痩せた体を意識した、170か所の傷が目に入らなかった、というのもすごい。本当ならば自分を守る力がすごい。

 

検察の求刑18年に対して、懲役13年の判決でした。

裁判長は「同種事案で最も重い部類」と言いながらも求刑18年は「従来の量刑傾向から踏み出した重い求刑だ」と指摘しています。そして「虐待のひどさが社会の耳目を集めたことを踏まえても、最も重い部類を超えた刑を科すべき根拠は見いだせない」→懲役13年との判断。

 

裁判員を務めた方は「許せないという感情的な部分と、過去の量刑傾向とのバランスを取るのが難しかった」とお話されています。

                    (裁判長の言葉等、新聞記事の参照です。)

 

判決を下す際には過去のものとのバランスをとらなければならない、とされるのですね。この裁判員の方も辛かっただろうなと想像します。

 

しかし。こういう裁判長のコメントなどを見ていると、だったら裁判員裁判、ていうか裁判やる意味ってあるの?とすら思ってしまいます。

過去の判例と照らし合わせで自ずと決まってしまうんだったら。そこに人はいらないですよね、裁判官も含めて。(極論ですが…)

18年と踏み出して何か悪いのか。

これまでが子供の命を権利をあまりに軽くみていただけで、ここから変えていく事をしてはいけないのでしょうか。